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松山城を築いた加藤嘉明(かとうよしあき)は、なぜ道後温泉近くにあった既存の湯築城(ゆづきじょう)を使わず、わざわざ勝山に新しい城を築いたのでしょうか。そして、現在私たちが目にする天守は、実は落雷による焼失を経て35年もの歳月をかけて再建されたものだということをご存じでしょうか。
本記事では、松山城の歴史を、築城の経緯から焼失・再建のドラマ、そして「現存12天守」としての価値まで、時代を追ってご紹介します。
・賤ヶ岳の七本槍・加藤嘉明が、既存の湯築城ではなく勝山に新城を築いた理由
・完成目前で会津へ転封となった、嘉明の数奇な運命
・5層から3層への改築、そして落雷による焼失という天守の変遷
・35年をかけた再建と「わが国最後の完全な城郭建築」という評価

1. 加藤嘉明という武将
加藤嘉明は、永禄6年(1563年)、三河国(現在の愛知県西尾市)に生まれました。生まれた年に起きた三河一向一揆で父が敗れ、幼くして流浪の身となったと伝えられています。その後、羽柴(豊臣)秀吉に見出されて仕えるようになり、賤ヶ岳の戦いでの活躍から「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられました。加藤清正と同じ「加藤」姓ですが、両者に血縁関係はありません。
嘉明はその後、伊予国正木(松前)の6万石(のち10万石)の城主となり、関ヶ原の戦いでの戦功によりさらに加増され、20万石を治める大名となりました。
2. なぜ湯築城ではなく、新たに勝山を選んだのか
戦国時代、現在の松山市の中心地は、道後温泉にほど近い平山城・湯築城(河野氏の本拠)にありました。しかし関ヶ原の戦い後に伊予国へ入封した加藤嘉明は、既存の湯築城を使わず、それに近い勝山にあえて新しい城を築くことを選びます。慶長7年(1602年)、嘉明は松山平野の中心をなす勝山を選んで築城を開始し、翌年には居を新しい城下に移すとともに、「松山」という地名を公にしました。それまでの地名であった「勝山」から「松山」へと改称されたのは、この時のことです。
新たな城を一から築くという判断には、旧来の河野氏の勢力基盤から切り離した、新しい支配拠点を作りたいという嘉明の思惑があったのではないかと考えられています。
3. 完成目前での転封——嘉明が見ることのなかった完成形
松山城の築城は、普請奉行の足立重信が指揮を執り、本丸・二之丸・堀之内・出曲輪・郭を備えた壮大な計画のもとで進められました。しかし嘉明が会津若松藩へ転封となる寛永4年(1627年)までの26年間で、工事はほとんど完成したものの、一部は次の城主・蒲生忠知(がもうただとも)に引き継がれることになります。四半世紀という長い歳月をかけて築いた城を、嘉明自身は完成した姿で見ることなく去ることになったのです。
4. 5層から3層へ、そして落雷による焼失
本壇にそびえた連立式天守は、当初5層の壮麗な姿を誇っていたと伝えられています。しかし寛永19年(1642年)、松平家初代藩主・松平定行によって、維持費の負担を軽くするため3層に改築されました。
ところがその天守も、天明4年(1784年)元旦の落雷により、本壇一帯の建物とともに焼失してしまいます。正月早々の思いがけない災害は、藩にとって大きな打撃だったと想像されます。
5. 35年をかけた再建——「わが国最後の完全な城郭建築」
焼失した天守の再建工事が着手されたのは、それから36年後の文政3年(1820年)のことでした。工事は実に35年もの歳月をかけて進められ、安政元年(1854年)にようやく落成します。この時に完成した天守が、現在私たちが目にすることのできる松山城天守です。
この天守は、江戸幕府の終焉が近づく幕末期に完成した城郭建築であることから、「わが国城郭建築史上最後の作品」として注目されています。石造りの穴蔵の上に木造3層3階を構える構造には、戦のための備えだけでなく、平和な時代を反映した居住性への配慮も見られるとされています。
なお、明治時代に入ってからも、明治3年(1870年)の火災で三之丸が、明治5年(1872年)の火災で二之丸が焼失するなど、松山城は幾度も苦難を経験しています。これらの建物は、昭和41年(1966年)以降の大規模な木造復元工事によって、その姿を取り戻しました。
6. 現存12天守としての価値
幾度もの改築・焼失・再建を経ながらも、江戸時代以前の様式を伝える天守が現在まで残っていることから、松山城は全国に12しかない「現存12天守」の一つに数えられています。「現存12天守」がどのような基準で選ばれているのか、他の11城との違いについては、以下の記事で詳しくご紹介しています。
松山城の歴史や、加藤嘉明ら戦国武将にまつわる書籍に興味を持たれた方は、以下から探すこともできます。
7. よくある質問(FAQ)
Q1:加藤嘉明はなぜ湯築城を使わなかったのですか?
A1:明確な理由は史料に残っていませんが、旧来の河野氏の勢力基盤から切り離した新しい支配拠点を築く狙いがあったのではないかと考えられています。
Q2:加藤嘉明は完成した松山城を見ましたか?
A2:いいえ。工事はほぼ完成していましたが、嘉明は完成前の寛永4年(1627年)に会津へ転封となり、完成した姿を見ることはありませんでした。
Q3:現在の天守はいつ建てられたものですか?
A3:天明4年(1784年)の落雷で焼失した後、文政3年(1820年)に再建工事が始まり、35年後の安政元年(1854年)に完成したものです。
Q4:松山城の天守はなぜ「最後の完全な城郭建築」と呼ばれるのですか?
A4:江戸幕府の終焉が近づく幕末期に完成した城郭建築であり、伝統的な様式で建てられた天守としては最後期の作品にあたるためです。
8. まとめ|幾多の困難を越えて残った、執念の城
松山城の歴史は、一人の武将の壮大な構想から始まり、5層から3層への改築、落雷による焼失、そして35年をかけた再建という、幾多の困難を乗り越えて今日まで受け継がれてきた物語です。加藤嘉明自身は完成を見届けることができませんでしたが、その志は後の城主たちに引き継がれ、幕末という時代の転換点に、見事な城郭建築として結実しました。
天守を訪れる際には、こうした波乱に満ちた歴史にも、ぜひ思いを馳せてみてください。

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### 免責事項・出典注記
本記事の松山城の歴史的経緯等の記述は、松山城公式サイト・愛媛県公式資料等で確認できた情報に基づいています。年代・経緯については史料により表記が異なる場合があります。詳しくは松山城公式サイトおよび専門書籍・学術資料をご参照ください。

















