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  • 五稜郭跡|特別史跡と幕末の歴史|箱館戦争と土方歳三をたどる


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    函館の観光名所として知られる五稜郭ですが、その正式な文化財としての姿は「五稜郭跡」、国の特別史跡です。星形の美しい姿の裏側には、幕末という激動の時代に翻弄された人々の物語があります。この記事では、五稜郭が特別史跡に指定されるに至った歴史的背景、そして戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争について、時代の流れに沿って詳しく解説します。

    【この記事でわかること】
    ・五稜郭跡が国の特別史跡に指定された経緯
    ・築城の背景にあった開国と海防の緊張
    ・箱館戦争の経過と、この地で戦った人々
    ・土方歳三ゆかりの史跡・一本木関門について
    ・史跡としての五稜郭を巡る際のポイント

    五稜郭跡の石垣と特別史跡の標柱

    1. 五稜郭跡とは?特別史跡としての価値

    五稜郭跡は、昭和27年(1952年)に国の特別史跡に指定されました。特別史跡とは、史跡の中でも特に学術的・歴史的価値が高いと国が認めたものを指し、城郭関連では姫路城跡や大阪城跡などと並ぶ格付けです。単に「古い城の跡」ではなく、日本が近代国家へと移行する転換点を物語る場所として、国から高い評価を受けていることがうかがえます。

    五稜郭跡がここまで重視される理由は大きく2つあります。ひとつは、日本国内でも数少ない西洋式城郭の遺構であること。もうひとつは、戊辰戦争という日本近代史の大きな転換点における最後の戦場となったことです。この2つの側面から、順を追って見ていきましょう。



    2. 五稜郭跡の由来と歴史的背景

    物語は、安政元年(1854年)の日米和親条約による箱館開港にさかのぼります。開港によって外国船の出入りが増える一方、それまでの箱館奉行所は港のすぐそばにあり、防御の面で不安が残る立地でした。そこで江戸幕府は、少し内陸に位置を移し、防衛拠点を兼ねた新しい奉行所を築くことを決定します。これが五稜郭建設の出発点です。

    設計を任されたのは、箱館諸術調所で教授役を務めていた蘭学者・武田斐三郎でした。武田は伊予国(現在の愛媛県)出身で、江戸で蘭学や兵学を学んだのち箱館に赴任し、箱館に入港していたフランス軍艦などから得たヨーロッパの築城技術に関する情報を研究したといわれています。その成果として採用されたのが、5つの稜堡を持つ稜堡式という設計でした。

    工事は安政4年(1857年)に着工し、7年の歳月をかけて元治元年(1864年)に主要部分が完成、堀や石垣を含めた全体の完成は慶応2年(1866年)ごろとされています。奇しくもこの完成の直後、慶応3年(1867年)には大政奉還が行われ、江戸幕府はわずか数年でその役目を終えることになりました。

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    3. 箱館戦争に込められた意味と精神性

    明治元年(1868年)、旧幕府海軍副総裁であった榎本武揚は、幕府艦隊を率いて蝦夷地(北海道)へと向かい、五稜郭を占拠します。これに合流したのが、新選組副長として京都で活躍した土方歳三でした。榎本らは五稜郭を拠点に一時的な政権樹立を宣言しましたが、新政府はこれを認めず、翌明治2年(1869年)、新政府軍による総攻撃が始まります。これが箱館戦争、戊辰戦争最後の戦いです。

    同年5月11日(旧暦)、土方歳三は自ら馬にまたがり出陣し、五稜郭近くの一本木関門付近で戦死したと伝えられています。享年35でした。土方の最期の地については諸説あり、異国橋付近であったとする記録も残っていますが、当時近くにいたとされる隊士・安富才助の記録が重視され、現在は一本木関門跡が定説として伝えられています。跡地に近い若松緑地公園には「土方歳三最期の地碑」が建てられ、全国から多くの人が訪れています。

    五稜郭に立てこもった旧幕府軍は、まさに武士の時代の終わりを象徴する存在でした。新しい国づくりへと向かう時代の大きなうねりのなかで、最後まで己の信念を貫こうとした人々の姿が、この史跡には刻まれています。

    武田斐三郎先生顕彰碑と五稜郭の土塁

    4. 史跡としての五稜郭跡を巡る

    箱館戦争ののち、五稜郭は陸軍省の管轄を経て、大正3年(1914年)に「五稜郭公園」として市民や旅行者に開放されました。昭和27年(1952年)の特別史跡指定を経て、平成22年(2010年)には発掘調査と史料をもとに箱館奉行所が復元され、当時の姿を実際に見て歩けるようになっています。

    史跡としての五稜郭跡を巡る際は、以下のようなポイントを押さえておくと理解が深まります。

    史跡 関連する出来事 所在地の目安
    五稜郭跡(郭内) 築城・箱館戦争の主戦場 函館市五稜郭町
    箱館奉行所 江戸幕府の役所・復元建物 五稜郭跡内
    武田斐三郎先生顕彰碑 設計者・武田斐三郎を顕彰 五稜郭跡内
    土方歳三最期の地碑 土方歳三戦死の地とされる一本木関門跡 函館市若松町(若松緑地公園内)

    幕末史をより深く知りたい方には、関連書籍とあわせて現地をたどる旅もおすすめです。函館滞在の宿泊先探しには、以下のようなサービスも役立ちます。



    5. よくある質問(FAQ)

    Q1:五稜郭跡はいつ特別史跡に指定されましたか?
    A1:昭和27年(1952年)に国の特別史跡に指定されました。

    Q2:箱館戦争はいつ、どのように終結しましたか?
    A2:明治2年(1869年)5月、新政府軍による総攻撃を受けて旧幕府軍が降伏し、戊辰戦争最後の戦いとして終結したといわれています。

    Q3:土方歳三が戦死したのは五稜郭の中ですか?
    A3:五稜郭そのものの中ではなく、少し離れた一本木関門付近で戦死したと伝えられています。跡地は現在の若松緑地公園にあたるとされています。

    Q4:五稜郭を設計した武田斐三郎とはどんな人物ですか?
    A4:伊予国出身の蘭学者で、箱館諸術調所の教授役として西洋の技術・兵学を教えていた人物です。五稜郭の設計・築造を監督したことで知られています。

    6. まとめ|史跡が伝える幕末という時代

    五稜郭跡は、単なる観光名所ではなく、開国から明治維新へと向かう激動の時代を今に伝える、国の特別史跡です。武田斐三郎が学び取った西洋の技術、榎本武揚や土方歳三が最後まで貫こうとした信念、そしてその後の時代を生きた人々によって守り伝えられてきた記録。それらすべてが折り重なって、今の五稜郭跡という場所ができあがっています。現地を歩きながら、そうした歴史の重なりに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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    若松緑地公園にある土方歳三最期の地碑

    ### 免責事項・出典注記

    本記事の情報は執筆時点のものです。歴史的な出来事の詳細(戦死の場所・日時等)には史料により異同があり、諸説併記としている箇所があります。正確な情報は函館市文化財担当窓口・函館市公式観光情報サイト等にてご確認ください。
    【参考情報源】函館市公式観光情報サイト「はこぶら」、北海道公式観光情報サイト「HOKKAIDO LOVE!」、武田斐三郎先生顕彰碑碑文(執筆時点で参照)。