結論から申し上げます。松本城の天守が「黒い」最大の理由は、築城当時の権力者・豊臣秀吉への忠義の証であるとともに、実戦における「防腐・防水性能」と「心理的威圧感」を両立させるためです。
2026年現在、現存12天守の中でも屈指の人気を誇る松本城ですが、その真の価値は単なる色彩の美しさだけではありません。戦国末期の緊迫感の中で築かれた「戦うための大天守」と、江戸時代初期の平穏な時期に増築された「風雅を楽しむための月見櫓(つきみやぐら)」が、渡櫓・辰巳附櫓を介して連なる連結複合式という構造体として共存している点にあります。この「戦闘と平和」という正反対の性質が同居する建築様式は、世界的に見ても極めて稀であり、国宝たる所以を象徴しています。本記事では、2026年2月時点の最新の維持管理情報を含め、漆黒の天守に隠された謎と、それを支えた城大工たちの技術、そしてこの城を守り抜いた人々の歩みを詳しく紐解きます。
1. 漆黒の定義:松本城の「黒」を形作る下見板張りと漆の技術
「下見板張り(したみいたばり)」という伝統技法
松本城を遠くから見ると、壁の下半分が黒く、上半分が白いことが分かります。この黒い部分は、下見板張りと呼ばれる木製の板で覆われています。木材の上に天然の黒漆(くろうるし)を塗り重ねることで、木材の腐食を防ぎ、同時に火災や風雨から城を守る強固な外壁を形成しています。白い部分は「白漆喰(しろしっくい)」で、黒と白のコントラストは、2026年の現代においても見る者を圧倒する日本の伝統美を体現しています。
なぜ「漆(うるし)」でなければならなかったのか
当時の建築技術において、漆は最強の天然塗料でした。漆には強い防腐・防虫効果があり、さらに一度乾燥すれば極めて高い防水性を発揮します。信州・松本の厳しい冬の寒さと雪から城を守るためには、この漆塗りの下見板が不可欠だったのです。2026年現在、松本城では伝統技術を継承した職人による「漆の塗り替え」が定期的に行われており、その輝きは築城から400年以上経った今も失われていません。
| 特徴 |
松本城 |
姫路城(白鷺城) |
| 主な外装 |
黒漆塗りの下見板張り + 白漆喰 |
全面白漆喰総塗籠(そうぬりごめ) |
| 築城時期のトレンド |
安土桃山時代(秀吉派の象徴) |
江戸時代初期(徳川の権威と防火重視) |
| 視覚的印象 |
重厚、威厳、実戦的、力強さ |
優美、華麗、清潔、平和の象徴 |
※松本城は「烏城(からすじょう)」と通称されることがありますが、松本城管理事務所の見解では、この呼称は歴史的な文献には確認できず、正式な別名ではないとされています。文献上裏付けのある別名は「深志城(ふかしじょう)」です。
2. 理由と背景:なぜ松本城は「白」ではなく「黒」を選んだのか
深志城から松本城へ ― 小笠原氏・武田氏の時代
松本城の前身となる深志城は、永正元年(1504年)頃、信濃守護家・小笠原氏の一族である島立右近によって築かれたとされています(松本市公式サイトより)。天文19年(1550年)に甲斐の武田信玄が信濃に侵攻して深志城を占領し、以後約32年間、武田氏が信濃支配の拠点として用いました。天正10年(1582年)に武田氏が滅ぶと、小笠原貞慶が旧領を回復し、城の名を「松本城」と改めています(同資料より)。
豊臣秀吉への忠誠と「黒のステータス」
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐ののち、徳川家康の旧重臣であった石川数正が松本城に入城します。数正は天正13年(1585年)に徳川家を出奔して秀吉に臣従した人物で、その真の理由は今も戦国史上の謎とされています。秀吉は数正を松本に配置することで、関東に移封した家康を監視する役割を担わせたともいわれています(松本城世界遺産登録推進公式サイトより)。当時の最高権力者であった秀吉は、自身が築いた大阪城に黒漆を多用しており、「黒い城」は秀吉派の大名の証でもありました。大天守・乾小天守・渡櫓の3棟は文禄2〜3年(1593〜1594年)頃に、数正の跡を継いだ息子・石川康長によって築造されたとされています(松本市の公式見解。なお令和7年〈2025年〉の年輪年代調査では1596〜1597年頃との見解も示されています)。後に徳川家康が天下を取ると、防火性能に優れ、徳川のイメージカラーともいえる「白」が城郭建築の主流となりますが、松本城はその過渡期にありながらも、秀吉時代の「黒の美学」を現代に伝える貴重な遺構となったのです。
夜間戦闘における「ステルス性能」
実戦的な理由も無視できません。松本城は北アルプスを背負う平城(ひらじろ)で、現存12天守の中でも唯一の平城です。夜間、背後の山々に溶け込む「黒」は、敵にとって城の輪郭を掴みづらくさせる効果がありました。白い城が夜目にも鮮やかに映るのに対し、黒い城は暗闇に潜む要塞としての「威圧感」を敵に与え続けました。この戦略的な色彩選択こそが、戦国を生き抜いた武将たちの知恵なのです。
3. 戦闘の「大天守」:115箇所の罠と急勾配の秘密
松本城のメインとなる大天守は、まさに「殺戮のための機械」としての側面を持っています。2026年の観光でも、その内部構造からは当時の張り詰めた空気感を感じ取ることができます。この時代、合戦の主力は火縄銃でした。天守の壁は1〜2階で約29センチメートルと厚く造られ、内堀の幅は約60メートルに設定されています。これは当時の火縄銃が高い命中精度を維持できる限界の射程距離であり、城内から内堀の対岸を迎撃できる計算に基づいたものです(国宝松本城公式サイトより)。
「狭間(さま)」と「石落とし」の密度
天守の壁面には、鉄砲や矢を放つための穴である「狭間」が、3棟合計で115箇所も設けられています。また、石垣を登ってくる敵に石や熱湯を浴びせる「石落とし」は、大天守・乾小天守・渡櫓の各1階に合計11か所設けられており、これは現存天守12城の中で最多です(日本100名城 松本城より)。内側から見ると、約57度の傾斜を持つ石垣の面を下から見下ろす構造になっています。これらの配置は、死角を一切作らないように計算されており、一歩でも城内に踏み込んだ敵を確実に仕留める執念が感じられます。
一階:武者走りという通路の工夫
1階には、外壁沿いに武者走り(むしゃばしり)と呼ばれる通路が設けられています。注目すべきは、武者走りが母屋部分より約45センチメートル低く設計されている点です。これは土台を二重に入れたための段差であり、床下の構造をのぞき込むことができます(国宝松本城大天守公式ページより)。
二階:鉄砲蔵と武者窓の軍事設備
2階には現在、松本市出身の赤羽通重・か代子夫妻が寄贈した141挺の火縄銃を収蔵した「松本城鉄砲蔵」の展示があります(国宝松本城公式サイトより)。国友(滋賀県長浜市)の小筒から重さ16キログラムの大筒まで多様な銃が揃い、松本城が鉄砲戦を念頭に設計された城であることを具体的に示しています。南面には3連〜5連の格子がはめ込まれた竪格子窓(たてごうしまど)(武者窓)が設けられ、格子の部材は幅13センチメートル・厚さ12センチメートルと太く、その隙間から火縄銃を撃つことを想定した設計です(国宝松本城五棟ページより)。
最大斜度61度の「魔の階段」
天守内部の階段は、現代の住宅では考えられないほどの急勾配です。特に4階から5階への階段は斜度61度に達します。これは4階の床と天井の間が4メートル弱と高い一方、柱と柱の間1スパンの幅に階段を収めたために生じた急勾配であり、意図的に急にしたというよりは、天井高と設置スペースの寸法が生んだ構造的な結果であることが、松本城の公式解説でも明記されています。結果として敵の侵入スピードを物理的に遅らせ、上階から槍や刀で迎え撃つための防御にもなっています。2026年現在は手すりが設置されていますが、当時の武士たちがフル装備でここを駆け上がった身体能力の高さには驚かされるばかりです。
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五重六階の「隠し階」と5階の作戦会議室
外から見ると5階建て(五重)に見えますが、内部は6階(六階)構造になっています。外からは窓が見えない3階部分に「隠し階(暗がり)」が存在します。これは、大天守の2重目屋根が望楼型の構造を残すために張り出しており、その屋根裏部分が3階空間となったことによる、建築的必然として生まれた空間です(松本城Wikipediaより)。意図して隠した階というよりは、望楼型から層塔型へ移行する過渡期の建築様式が生んだ副産物であり、南西の千鳥破風の木連格子からのわずかな外光のみが差し込む薄暗い空間になっています。5階には東西に千鳥破風、南北に唐破風が取り付けられ、室内に入り込む「破風の間(はふのま)」があります。四方の武者窓から全方向の様子を見渡せるこの空間は、有事の際に重臣たちが作戦会議を行う場として機能したと考えられています(国宝松本城公式サイトより)。
太鼓門と玄蕃石 ― 入口に据えられた22.5トンの巨石
二の丸への入口にあたる太鼓門(たいこもん)は、石川康長の時代に築かれたとされる枡形門で、平成11年(1999年)に木造で復元されました。門の傍らには玄蕃石(げんばいし)と呼ばれる重さ約22.5トンの巨石が据えられており、康長がこの石を運ばせたとする伝承から名付けられています(ホームメイト城郭資料より)。天守だけでなく、城の入口に至るまで威容を示す設計が徹底されていたことが分かります。
4. 平和の「月見櫓」:戦う城に付け加えられた「寛ぎ」の空間
松本城を唯一無二の存在にしているのが、大天守の隣に連結された月見櫓(つきみやぐら)の存在です。これは江戸時代初期の寛永10年(1633年)頃、松平直政が徳川家光の来城を仰ぐために、辰巳附櫓とともに増築したものです(実際には家光の来城は中止となりました)。この増築により、大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓という現在の5棟構成の連結複合式天守群が完成しました。
戦闘機能を一切持たない異例の建築
月見櫓には、狭間も石落としもありません。代わりに、三方に赤い手すり(高欄)が巡らされ、開放的な窓が設けられています。これは「戦うため」ではなく、文字通り「月を愛でるため」だけに造られた優雅な空間です。
大天守(戦国・動)と月見櫓(江戸・静)。これらが違和感なく一体化している姿は、日本が長い戦乱の世から、文化と平和を尊ぶ時代へと変遷していった歴史をそのまま映し出しています。2026年の観光客は、この櫓に立つことで、かつての藩主が眺めたであろう信州の月夜に思いを馳せることができます。
5. 天守を支えた「匠の技」――地盤・屋根・信仰にみる城大工の知恵
戦うための設計思想だけでなく、この木造建築が約400年にわたって現存しえた背景には、目に見えない部分に注がれた城大工たちの技術があります。
軟弱地盤を克服した16本の土台支持柱
松本城は、女鳥羽川や薄川が形成した扇状地の扇端部、つまり軟弱な地盤の上に築かれています。重量約1,000トンの大天守をこの地盤の上に安定させるために、先人が施した技術が16本の土台支持柱です。天守台の石垣内部に、直径約39センチメートル・長さ約5メートルの栂(つが)の丸太が16本、碁盤の目状に配列されています。各杭の中央にはほぞ穴が彫られ、杭同士が連結されて16本が一つの構造体として機能していました。これらの杭は石垣を積む前に配列され、石垣を積み重ねる過程で埋め込まれたと推定されています(国宝松本城 天守とその構造より)。また堀側の根石には「筏地形(いかだじぎょう)」を施して沈下を防ぐ工夫もなされています(松本市公式サイトより)。
鎌倉時代の寺院建築を受け継いだ桔木構造
天守最上階の屋根裏を見上げると、太い梁が井の字に組まれ(井桁梁・いげたばり)、その下に放射状に配置された太い材が見えます。これが桔木(はねぎ)と呼ばれる構造です。桔木はテコの原理を応用した装置で、屋根の中央部分の重量(力点)を利用して軒先(作用点)が下がらないように支えています。この仕組みは鎌倉時代の寺院建築から採用されたものであり、松本城大天守と乾小天守の両方に設けられています(国宝松本城公式サイトより)。城郭建築と寺院建築の技術が交差している点に、当時の大工たちが蓄積してきた知恵の深さが見えます。
曲がった梁と舟形肘木――自然素材を活かす技術
渡櫓の2階には、自然のままの曲がった木をそのまま梁として使用している部材があります。曲がった木材をあえて使用することは、強度の面で優れているといわれており、彦根城・金沢城など他の城でも同様の技術が確認されています(国宝松本城五棟ページより)。また、梁を継ぐ際に接合部が弱くなる問題を補強するために、下から舟形をした材をあてる「舟形肘木(ふながたひじき)」の技術も随所に見られます。柱の継ぎ目には「金輪継ぎ(かなわつぎ)」と呼ばれる継手技術が用いられており、木材同士を強固に結合しています(同ページより)。
最上階に息づく信仰――二十六夜神
最上階(6階)は、1〜4階とは異なり間仕切りのない一室構造です。外壁の内側は真壁造りとなり、柱や構造材がすべて露出しており、ここからは北アルプスの山々を一望することができます。この最上階の梁には二十六夜神(にじゅうろくやしん)が祀られています。元和3年(1617年)に松本に入封した戸田氏が祀ったとされるもので、月齢26日の月を拝む月待信仰に由来します。戸田氏は毎月約500キログラムの米を炊いて供えたといわれ、関東地方に盛んだった月待信仰が松本にもたらされたものと考えられています(国宝松本城公式サイトより)。戦うための要塞の最高所に、静かな信仰の場が設けられているという事実もまた、この城が持つ「戦闘と平和」の二面性を象徴していると言えるでしょう。
6. 城を守った市民の物語 ― 明治の廃城危機から国宝指定へ
これほどの技術と美意識が結晶した天守も、明治維新後には解体の危機に瀕しました。廃藩置県によって城郭は不要なものとみなされ、全国で次々と城が取り壊されていく中、松本城も例外ではありませんでした。明治5年(1872年)、天守は大蔵省によって競売にかけられ、235両永125文で個人に落札されます。落札者が天守を取り壊そうとしたそのとき、松本町の副戸長であった市川量造(いちかわりょうぞう)が立ち上がりました。
市川は「城がなくなれば松本は骨抜きになる」と訴え、天守を借りて博覧会を開催し、その観覧料を資金に充てて天守の買い戻しに成功します。さらに明治36年(1903年)には松本中学校長・小林有也(こばやしうなり)が「松本天守閣保存会」を立ち上げ、広く寄付を募って大正2年(1913年)まで「明治の大修理」を完了させました(国宝松本城公式サイトより)。城を守ったのは権力者ではなく、市民の意志と行動でした。この歴史があったからこそ、天守は昭和11年(1936年)の国宝指定、そして昭和27年(1952年)の現行法による国宝指定へとつながり、今日私たちがその姿を目にすることができるのです。
7. 2026年最新:漆黒の美しさを守る「伝統技術の継承」と現状
2026年現在の漆のコンディション
松本城の漆は、約10年に一度、秋に大規模な塗り替えが行われます。前回の全天守塗り替えは2018年に完了しており、2026年現在は、漆が適度に落ち着き、深みのある「しっとりとした艶」を放っている最も美しい時期の一つと言えます。2028年頃には次回のメンテナンスが予定されているため、この自然な経年変化による「重厚な黒」を堪能できるのは、今だけの特権です。
維持管理の難しさ:エンジニア的視点
天然の漆は紫外線に弱く、信州の強い日差しと厳しい乾燥は漆にとって過酷な環境です。しかし、松本市は伝統的な手法を頑なに守り続けています。化学塗料を使えば安価にメンテナンスできますが、それでは国宝としての「呼吸」が止まってしまいます。2026年も、熟練の職人が一筆ずつ漆を塗り重ねる光景は、日本の文化遺産保護の象徴となっています。
FAQ(Q&A)ブロック:松本城の「黒」と二面性の謎
Q1. 他に「黒い城」はありますか?なぜ松本城だけが有名に?
A. 岡山城(烏城)や熊本城なども黒漆が使われていますが、松本城が特別なのは「五重六階の現存木造天守」として唯一無二だからです。他の多くの黒い城は再建されたコンクリート造であるのに対し、松本城は400年前の木材と漆そのものが残っているため、放つオーラが根本的に異なります。なお、松本城自身は地元で「烏城」と呼ばれることもありますが、松本城管理事務所によればこれは歴史的文献に根拠のない通称であり、正式な別名は「深志城」です。
Q2. 月見櫓だけ色が明るく見えるのはなぜですか?
A. 月見櫓の朱塗りの手すりや、内部の装飾は江戸時代の平和な「数寄屋造り」の要素を取り入れているためです。大天守の質実剛健な黒と、月見櫓の華やかな朱の対比は、当時の「粋(いき)」を表現したものです。
Q3. 漆黒の壁は、夏に熱くなりませんか?
A. 黒は熱を吸収しやすい色ですが、石垣の上にあり風通しが良いこと、そして分厚い木材が断熱材の役割を果たしているため、内部は意外にも夏でもひんやりとしています。2026年の最新調査でも、城内の自然対流による温度管理機能が注目されています。
Q4. 松本城の天守はなぜ外観が5重なのに内部は6階建てなのですか?
A. 大天守は望楼型から層塔型へ移行する過渡期の建築様式を持っています。下から2番目の屋根が3階部分を覆う形になり、外から見えない屋根裏的な空間が生まれました。外観の重数と内部の階数が一致しないのは、この建築様式の特性によるものです(松本城Wikipedia・RKB毎日放送より)。
Q5. 天守の地盤はなぜ軟弱なのに現在まで倒れないのですか?
A. 天守台の石垣内部に、直径約39センチメートル・長さ約5メートルの栂の丸太が16本、碁盤の目状に埋め込まれていました。この土台支持柱が1,000トンの天守の重みを均等に地面に伝える役割を果たしていました。また堀側には筏地形という工法も施されています(国宝松本城 天守とその構造より)。
Q6. 松本城が国宝として現在まで残っているのはなぜですか?
A. 明治維新後、天守は競売にかけられ取り壊しの危機に瀕しましたが、地元の市川量造が買い戻しに動き、その後小林有也らによる「明治の大修理」が実現しました。この市民による保存運動があったからこそ、昭和11年(1936年)と昭和27年(1952年)の2度にわたる国宝指定を経て、今日まで現存しています(国宝松本城公式サイトより)。
まとめ:2026年、松本城の「黒」と「匠の技」から日本の精神性を読み解く
松本城の漆黒は、単なる色の選択ではありません。それは、過酷な戦国を生き抜くための「実用的な知恵」と、豊臣秀吉への「変わらぬ忠義」、そして江戸時代に花開いた「平和を愛する心」が結晶したものです。戦うための大天守と、月を愛でるための月見櫓。この二面性が一つの城の中に奇跡的に共存している姿こそ、日本人が持つ「強さと優しさ」の象徴ではないでしょうか。
そしてその二面性を400年にわたって支え続けたのが、軟弱地盤に打ち込まれた16本の丸太であり、鎌倉時代の寺院建築から学んだ桔木の技術であり、曲がった自然木さえも活かす継手の工夫でした。さらに、この城が明治の廃城危機を乗り越えて今日まで残っているのは、市川量造をはじめとする市民たちが、権力ではなく意志の力で城を守り抜いたからです。目に見える色彩の美しさの裏には、目に見えない構造の知恵と、人々の想いが息づいています。
2026年、北アルプスの雪山を背景に凛と佇む漆黒の天守。その美しさは、伝統を守り続ける人々の手によって、今この瞬間も更新され続けています。次にあなたが松本城を訪れる際は、ぜひその壁の色と、足元を支える見えない構造、そして城を守り抜いた人々の物語に、400年の時を繋いできた祈りと誇りを感じ取ってみてください。
松本城の漆黒の美しさを堪能した後は、城下町の中町通りで蔵造りの街並みを散策するのもおすすめです。
本記事の情報は執筆時点のものです。天守の公開状況・入館料・展示内容は変更される場合があります。訪問前に必ず国宝松本城の公式サイトにてご確認ください。建築年代等の歴史的数値は参考値であり、諸説があります。
【参考情報源】
・国宝松本城(公式サイト):https://www.matsumoto-castle.jp/
・松本市公式サイト「松本城天守」「松本城の歴史」
・松本城Wikipedia(大天守の構造に関する記述)
・RKB毎日放送「石川数正に焦点を当てて国宝・松本城天守を見る」
・日本100名城「松本城」(heiwa-ga-ichiban.jp)
・国宝松本城五棟ページ/国宝松本城 天守とその構造ページ
・国宝松本城 管理事務所「松本城は烏城(からすじょう)ではありません」
・松本城世界遺産登録推進公式サイト「松本城天守を建築した石川氏」
・ホームメイト城郭資料「国宝五城『松本城』の歴史と特徴」